ググることが誰よりも得意なパソコンの大先生だった
ChatGPT o3 と o4-mini がリリースされたという情報を聞いて、久しぶりに ChatGPT Plus に加入していろいろ質問して遊んでいた。
なるほど、モデル名の違いはよくわからないけれども、回答が以前より詳しく出ている気がする。
そして、ふと「まだ AI ごときには情報収集力と地元力を活かした 生活の軸はずっと下北 レベルのまとめは作れないだろう」と思って「下北沢で並ばずに入れるランチのオススメのお店を教えて」と聞いたら、なんと俺のイチオシであるハンバーガーが有名なカフェ(美味いし比較的安くて空いている)の名前を出すではないか。
俺は Google で情報を調べることについては人並み以上の能力を持っている自信があり、日頃から飲食店のレビューを Google マップ・食べログ・Retty などで見まくり、主に星の数が 1 と 5 に偏っていないかなどを注視している。それに加えて現在の居住地の下北沢の飲食店は、一時期に知らない店に行くことにハマっていたこともあり、オンラインに出ていないことも含めて知っているつもりではあるが、その俺と同じ回答を AI がしてきたのだ。(もちろん ChatGPT の回答結果の情報源に、インターネットの片隅にかろうじて存在しているこのブログはない)
想像以上にクオリティの回答をしてきた AI に驚き、震える手を抑えながら「電子書籍でマンガを読むのに向いている、紙の書籍の縦横比に近い Android タブレットを 10 個挙げて」と聞くと、俺が何時間もかけて価格.com や versus.com、そして各種レビュー記事などを複数タブで行き来しながら調べ上げた情報が、ものの数分で一覧になって出力された。
「終わり」である。
人より秀でたことが他に何一つなかった俺から、Google での情報検索というたった一つの能力の優位性が失われてしまった。
有益な情報が誰でも手軽に得られる時代を喜ぶ気持ちは多少ありつつも、もはや情報を探り当てるという楽しみや優越感というのはなくなってしまったのだなと悟った。
* * *
しかし、こうなってくると、もはや情報の「結論」は当然に存在しているものとなって、それに価値を感じる人は少なくなっていくのだろうと思う。
Quora の共同創業者である Charlie Cheever が「誰かに『果物のオレンジと色のオレンジってどっちが先に名付けられたの?』って聞くと、その回答だけじゃなくて、オレンジにまつわるちょっとした小話も返ってくるのがおもろいよね(超意訳)」と言ってたエピソードが好きなのだけれども、まさに AI の登場・進化によりそういう時代になってきている。オレンジの名前がどっちが先かなんてどうでもよくて、俺はあなたが普段どこでオレンジを買っているかを聞きたいし、そのオレンジが美味しかったら一緒に買いに行きたいんだ。
いや、そもそもインターネット以前の人間はそう生きていたはずだ。例えば AI に名古屋旅行のプランを聞けば、そりゃあ、るるぶと Trip Advisor を掛け算したような良くできた計画を出してくれるだろう。でもそんな旅じゃなくて、それよりも「そういえば前に仲良かったあいつは確か名古屋出身だったな」とか思い出して、久しぶりに連絡を取って近況を聞きながら「今度、名古屋に行くことになったんだけどオススメの場所とか教えてよ」って言うそんなやりとりに、ただの情報の伝達以上の価値を感じていたはずだ。(いや、そんな友達は実際には存在しないんだけど)
でも、こういう気持ちも、俺が AI ネイティブじゃないからこそ持ち合わせている感傷的なものなんだろうな。今の子供は Alexa と口喧嘩するとか聞くし、人生を共に過ごした AI が、名古屋出身の彼と同じような存在になって「ねえ Alexa、久しぶり。今度名古屋旅行に行くんだけど、オススメの場所を教えてよ。チャッピー (ChatGPT) はあんまりいい場所教えてくれなくてさ」とか聞くんだろうな。
そのときの AI が、ドラえもんのように、これからの世代にとっての良きパートナーになっているのなら、俺から言うべきことは何もないね。