オタクを目指してオタクになったらオタクじゃないのか問題について
「そもそも本当に気が合うか疑わしい… > 彼らはアニメの話とか大好きだけど俺らは見ないだろ」
押切蓮介「ピコピコ少年SUPER」より
「オタクというものはなろうと思ってなるものではなくて、いつの間にかなっているものだ」というような言説は自分の記憶の限り、15年以上前からあったように思う。 最近も(それぞれ関わりの薄い)複数のメディアでそういった話を見たので、相変わらずそういった話は定番のものとして根付いているようだ。おそらく「げんしけん」(初代は2002年から2006年連載)でワイワイした楽しいオタクコミュニティが描かれ「オタクを目指してオタクになる」というカジュアルな人たちが現れ始めたことに対していにしえのオタクの苦言を呈しているというようなところなんだろう。(実際「げんしけん」関係でそういった「目指されたオタク」をネタにされたことがあるらしいが未確認)
しかし「げんしけん」以前でも「なりたいオタク」と「なってしまったオタク」というのは存在していたという感触がある。そこで冒頭の引用である。
押切蓮介の「ピコピコ少年SUPER」 の中で、2002年に神崎良太(押切蓮介)と清野とおるがインターネットで知り合った人々とコミケの後に一緒に鍋を囲む約束をするが、なぜか実際に現地で落ち合ったらハブられてしまい、(漫画上の)清野とおるが発した言葉である。
これを読んだときにアニメをあまり見ないタイプのオタクの僕は思った。「わかる~」と。
昔からコミュニティとして成立しているオタク文化に属しているオタクと、コミュニティとして成立しづらいオタク文化なのでどこにも属していないオタクというのはわりと分離しているように感じる。例えば前者はアニメやアイドルで、後者は(ピコピコ少年に登場した彼らが愛したような)ホラー漫画などだ。
もちろんコミュニティに属さずアニメやアイドルを好むオタクもいるだろう。逆にコミュニティとして成立しづらくてもローカルな仲間を見つけることもあるだろう。そう、どちらにも「いつの間にかなっていたオタク」はいるけれども、一般的に目指されるカジュアルなオタクはコミュニティに属するオタクなのである。
いや、そんな話はどうでもいいのだ。
「コミュニティが楽しそうだから」という理由でオタクを始めてもいいじゃないか。もともと掛け持ちでやってたオタク趣味がいつの間にかメインになってしまうこともあるじゃないか。
そんなことを発泡酒を5本あけながら考えたので、半年ぶりにブログを書いたのです。